ここに残す話は歴史の中に埋もれてしまえば誰も知らない事になる。しかし、地方の小さな村で起きた出来事も村にとっては一大事であったこと。
当時の村総代が命がけで村を守ったことを多くの人たちに知ってほしい思いから記録に残すことにしました。
この話は元禄10年(1697年)、三登山の麓にある村が勝手に山に入り伐採や田畑を広げているとして、三登山を入会地としている近郷54ヵ村の村々が飯山藩に訴えを起こした事から始まります。
※元禄元年(1687年)~享保9年(1724年)までこの村は幕府直轄領
この村は荘園制度があった鎌倉・室町時代には太田庄に属し、戦国時代までは上杉の地として現在の場所より一キロほど東にある萬寳山の東麓に集落があったとされ、江戸時代になって北国脇往還(善光寺街道)が敷かれたことで今の地に移り、長沼藩、直轄領、飯山藩を経て上水内から長野市へと遷移してきた村である。
当時の村総代、細野九之丞(ほそのきゅうのじょう)はこの訴訟解決のため4年間に渡って命を惜しまず対応に当たります。この時、九之丞は明暦4年(1658年)に長沼藩が検地した隣接村境界の取交わし証文と絵図を根拠に村の領地を守りますがそのための努力が伝説として残されており、昭和期には地元小学校の社会科資料にもなっています。
伝説
ゴウロウ四八割の由来(九之丞の知恵・その一)
元禄の頃、万宝山の東南の辺から命令に従って北国街道沿いに移り住み、まだ生活基盤も固まらないうちに厳しい年貢の取立てによって貧しい生活をしていた。
その頃、西山の山中(鬼無里らしい)から婿養子に入った九之丞という人がむらの総代として選ばれた。彼は総代となって、むらの人の貧しい暮らしに心を痛めその対策を考えた。そのひとつとして、むら人が自由に薪や薪をとることのできる山が近くにあれば暮らしが楽になるのではないかと考えた。
吉むらは周囲が山に囲まれていながら、その山が領主のものであったり、里方の多くの村の入会地であって、吉むらの人達の所有地は皆無であったからである。
九之丞は、むらから最も近いゴウロウ山の、要所要所に密かに炭を埋めて歩いた。そして、何年か後に「ゴウロウ山の地は、元から吉むら固有の山であったものを里山の村々に横領されたのであって、あれが無いと吉むらの人々は生活していくことはできません。何卒お上のお情けをもって元どおりに返していただくように願います。」と願い出たのである。もとより彼の作りごとではあるが、これは彼が体を張って賭けた訴訟であった。そこで元禄14年3月、検分に来た役人方は、里山入会の村々の代表と九之丞を呼び出して事情を聞いた。しかし、言い分は両者互いに譲らず、業を煮やした役人は「不埒な百姓ども、痛い目にあわせて問い糺してくれよう」ということで鍋石の辺で拷問によって責め立てた。それでも白黒の判定が着かなかったので最後に九之丞の主張する埋められた炭を確認し、唯一の証拠としてゴウロウ山は吉むらの固有の山ということになった。
所有権は吉むらに決まったので九之丞は当時のむらの戸数48戸に割って各戸に分配した。今もなお、むらには「ゴウロウ四八割」のことばが伝えられている。
池底の杭(九之丞の知恵・その二)
田子池は、昔から吉むらと田子・三才の三か村に水利が及ぶ共同の用水池であった。そのために、水掛けをめぐる小さな争いごとは起きても、村と村が争うことはなかった。しかし、池の所有地が村の間にありながら、池全体が田子の地籍なっていることが吉むらの人たちにとっては、永い間にわたって割りきれないものであった。
九之丞は、吉むらの将来を考え、村の境を田子池のまん中にしようとして策をたてた。そこで、考えた方法は、誰も知らない間に境界の標杭を打って、既成の事実を作ってしまうことである。毎年秋になると、池の水を全部払い落として底樋を入れ直すことを知っている彼は、その頃を見定めて真夜中に池へ「ハゲリ」を浮かべて、それに乗って樋口から直線に杭木を打って歩いた。そして、その翌日、吉・田子両村の人たちに「池の中の境として杭が打ってあることをきいたことがある」と話した。両村の人が立ち会って、九之丞の打ち込んだ杭を見て、それを境界とすることになったということである。
(若槻小学校社会科資料集・昭和44年版)
この伝説の真意はこのような事ではないだろうか。
その一に出てくるゴウロウ山は実際には南ゴウロウ山と北ゴウロウ山の2つの山となっており、三登山の稜線とは異なる山筋であり山の斜面自体も村と繋がっているためどのように判断しても村の領地で間違いない、あえて言えば明暦の長沼藩の検地から30年近く経って分かりづらくなった境界を引き直した話。
その二でも用水地として水利権を持つ村々の共有地であることに間違いはないから土地として半分に分ける事に異論は無いはず。あえて言えば現在の土地配分は田子が2/3、吉が1/3となっています。
この細野九之丞については区史の九之丞伝説の話に「西山の山中(鬼無里らしい)から婿養子に来た」と書かれているが、伝説での行動力から平民とは言えない知恵者であることや公に苗字が使えた事から細野織部(木曽義仲の臣)の血筋を継ぐ郷士で水野忠清(初代松本藩主)から苗字帯刀を許された小谷七騎の石坂村(現小谷村石坂)細野家の血縁者であると考えられ、その後に細野姓に関する文献がひとつも無いことから松本藩主から一代限りの苗字帯刀を許されて彼の地より移り住んだものと考えられる。
山論の内容については三登山を入会地としている善光寺平の54ヶ村が三登山の東北側の麓を南北で挟むように存在するふたつの村が勝手に山地を使用していると飯山藩に訴えを起こした事であるが、ほぼこの村の主張通り勝訴となっており、この訴訟に当たり九之丞は七面大明神の祠で解決の暁には七面大明神を祀る堂を建てるという誓願を立てました。
七面大明神の祠が何処に有ったのかは文献に残されていませんが、神仏習合の時代七面大明神は市杵島姫命と同格化されており、水の神様とする弁才天(弁天様)として祀られる事から今でも地区の用水池である弁天池の底に祀られている祠ではないかと推測します。
その証拠かは分からないがこの写真中央の上に赤いオーブのような物が映り込んでいる。ちょうどこの赤い物が浮かんでいる真下あたりに祠があり、湖面の深さが半分ほどになると現れてくる(たぶんカメラのハレーションのせいだと思うが、偶然にも池の中にある祠の真上で赤く映っていたので、フェイクではありません)
建物の呼び方については明治の町村記録で雑社となっているため現在でも七面社となっていますが、歴史背景から見た存在価値としては堂の名が相応しい事から七面堂とも呼ばれています。
説明の元になっている古文書には村の境界を明確にした事が記されており、その時に弁天池に祀られていた七面大明神の祠で勝訴の誓願を立て、その成就の感謝として弁天池の東方に堂を建てました。(東の方角には発展や成功、統率の意味があり吉村が未来永劫続いてほしいと言う願いを込め祠から見て東の地に建てた)
弁天池と七面大明神の関わりは諸説ありますが弁才天、吉祥天、七面天女を同じ(神仏習合時代は市杵島姫命と同じとしていた)とする見方も多くあります。
堂の本尊である七面天女(七面大明神)も法華経を守護する神仏として信仰の対象とされています。
この事から七面堂は今の日蓮宗と直接関わりのある建物ではなく、法華経の守り本尊である七面大明神を祀る堂で有る事が分かります。鎌倉時代から近世にかけて真言宗、天台宗、浄土宗、浄土真宗、曹洞宗でも法華経を尊ぶ民衆が多く居た事は確かであり、この村にも法華経信者が居た証拠として地区の北にある法華経千回塔(寛延4年、1751年)や旧浄泉院参道口の大乗妙典六十六部廻国塔(寛政12年、1800年)、南にある法華経一千部塔(宝暦4年、1754年)など法華経に関わる石塔も存在しています。
現在の堂は文化9年(1812年)に再建され平成17年(2005年)に改修工事が行われていますが、その地には細野九之丞の墓石と位牌も現存しています。
また、地区所有の古文書にはその後の入会山論の記録もあり、文化11年(1814年)に三登山と髻山はこの村の入会地では無い(入会地が無くなると言う事は村の死活問題)と言う訴えを起こされて村の百姓代である吉治郎が2年をかけて飯山代官所白洲での裁判や近郷53ヵ村との交渉をしており、確証は取れていませんが墓石の年代から見て吉治郎のものと思われる墓が堂下斜面に残されています。
明治に入り神仏分離令以降、村では寺院や神社の所有者を明らかにする必要を迫られました。神社は諏訪社を村社、神明社を雑社として村が管理、浄泉院は住職の所有、木仏堂も集会所として村で管理するが、七面堂は村を加護する七面大明神と偉人の墓を守る為にも管理する必要があるのだが、寺だと所有者のいない空き寺のため廃寺にされるおそれがある。そのために当時の村役達は堂を存続させる策として神社の扱いとなる雑社としたのであろう。
しかし実際に堂を管理するにあたっては、本尊である七面天女すなわち七面大明神は法華経を守護する神であり、日蓮宗の守り本尊でもあると言うことから、その後の堂守については日蓮宗の檀家に任せたと言う事ではないだろうか。
堂周辺の土地が大正期に檀家衆の所有とされたことからも堂を守る為の策であったのだろう。
さらに昭和に入り戦後の宗教法人法と租税問題が絡み、昭和34年には建立より祭祀をお願いしてきた原立寺の好意により境外仏堂として登記してもらい、以降は参道階段と境内の土地は原立寺、周辺の土地は長野市水道の土地を挟んで檀家3軒で分筆、百姓代であった吉次郎の墓がある境内の東斜面は諏訪社(地区)の土地となっている。
ここで日蓮宗原立寺との関係を説明すると元和2年(1616年)~元禄元年(1688年)の70年余りこの村は長沼領であったことから、長沼城下にあった原立寺と永代の繋がりがあると思われ、七面堂建立のお願いが「小清水七面大明神之事」と言う文書で原立寺に送られており、その古文書は明治16年に吉むらに戻されている。
なお、原立寺は明治39年頃、度重なる千曲川氾濫の被害を避けるため長野市妻科に移った。
また江戸時代から祀られていた七面天女には松代にある蓮乗寺の銘が記されていた。明治以前の原立寺はその蓮乗寺の旧末寺として深い繋がりがあるからである。さらに蓮乗寺は佐久間家の菩提寺であり、象山の研究文献にも蓮乗寺と当時長沼にあった原立寺の関係が記されている。
佐久間象山自身も法華経信者であったことからこの村に七面天女像が祀られている事を知っていたと思われる事柄として、この村に象山揮毫の五反幟が残されている。これからも蓮乗寺と原立寺、村との関連性が裏付けられる。(象山の弟子である花岡復斎との縁と言う説もあるが、復斎と村の関係が定かではない事から法華経との縁のほうが濃いのではないだろうか)
追記)令和元年10月13日未明に起きた台風19号の影響による千曲川決壊で被災地となった長野市の長沼地区とこのお堂がある「吉村」は信濃国水内郡に属し、中世では太田庄、近世でも同じく長沼領にあった。
熱心な法華経信者である原美濃守虎胤(武田家二十四将のひとり)が開基檀越となる原立寺も明治まで長沼の津野に有り、長沼藩の頃は日蓮宗も曹洞宗に次ぐ2番目に檀家数であった事から相当数の法華経信者も居たはずである。また、同じく穂保地区には吉村姓が多いこと、大町地区には上町吉村と言う地名があることもあり、私個人としては長沼の方たちと同じ先祖が居たかもしれないため、台風災害は他人事とは思えない感情である。
村民が代々にわたり七面堂を守ってきた事は永江村史(旧豊田村の永田になる前は永江村と穴田村)からも読み取れる。
弘化4年(1847年)の善光寺地震で赤塩村(飯綱町上赤塩)の七面社(七面大明神と法華経を崇敬した飯山藩の川除普請奉行野田喜左衛門を祀る)が倒壊した際に寄進をしている。
村自体も善光寺地震に関する歴史誌に記録が残されるほどの壊滅を受けた僅か8年後にも関わらずその復興資金を出していることから、どれほど七面大明神を崇敬していたか読み取れる(地区所有の古文書にあるが当時の村は善光寺地震以降15年に渡り人足軽減や減税願いを藩に出すほど困窮していた)
また時代を遡り倒壊前の赤塩七面社建て替え時も寄進した記録もある。
この村自体も善光寺地震により三登山の丑寅の地、景勝鬼岩周辺が崩落し崩れた土砂が土石流となり急な山道を流れ溜池を決壊させ、多くの村人の命が失われた事はむしくら日記にも記されている。
しかしこの村では地震の揺れが少なかったのだろうか。先に記した法華経に関わる石塔や七面堂参道階段の途中にある題目塔もすべて弘化4年以前の建立にもかかわらず倒れた痕跡が無いと言う事はこの村の地が神仏の加護を受けた盤石な地であることに相違ない。
弘化4年以前は藤原地籍から塩沢峠、八方を通り袖之山に上る道は塩沢から八方までが急こう配の難所となる道であった。塩沢と言う地名は明礬が取れた場所であり、いくつかの古文書にも採掘の事が書かれていたり、隣村の田子神社付近の湧水が目の病に良いとの言い伝えもあるようなので、三登山の北東部はそんな地層なのだろうか。また八方と言う地名に詳しい方なら判ると思うが、この道は律令東山道の脇道として北陸道に続く多古駅(三才付近)から沼辺駅(野尻湖付近)の道中との説も多くの歴史調査書に記されています。
当時の暮らしを想うならこの村も含めて訴えを起こした近郷の村々は霊仙寺山や黒姫山の入会にも入っており、街道を通れない農民は途中の村々の間をお互いの様子を伺いながら行き来していたことから各処で山論水論が起きてもおかしくなかっただろう。
また、七面大明神が関係する事としては文の途中でも記したが飯山藩で新田開発に伴う用水堰工事を行い、村々の石高を上げることに貢献した野田喜左衛門が工事の際に泥抜けしない場所(崩れない盤石な土地)に必ず七面大明神の祠を祀っていたことから、この村も用水池として弁天池が掘られ、用水路が敷かれたはずである。
その恩恵か正保年間から元禄年間のあいだに石高が増えている様も歴史誌から読み取れます。
おしまいにあたり
この話については昭和50年代から堂が守られてきた理由を知る地元民が少なくなり、先人に対する敬意が薄れてきたことから現在の七面堂が文化9年に再建された際に掲げられた縁起文を元に堂が建てられた理由と七面大明神について調べ始め、その行き着くところが地区所有の古文書にその記録が残されていたと言う結末となりましたが、事実を後世に残すために掲載しました。
古文書の文面については長野県史〈近世史料編 第7巻〉などにも掲載されている元禄年間における三登山入会山論である「信州水内郡長沼領・新野領・松城領五拾四ヶ村と同郡吉村・袖野山村論之事」が元になっています。
この山論の内容については「三登山の利用と入会山論」と題して故内山信政先生が昭和55年に長野郷土史研究会機関誌に投稿され、その文面は「若槻史」と「区史よしむら」にも再掲されています。
文末になりますが本文については各郷土誌や歴史資料からつじつまの合う史実関係を調べるため教育委員会、歴史館学芸員や公文書館職員の方々や各所の方々より歴史や時代背景に関わる助言を頂きましたことに感謝申し上げます。
参考文献および調査地
吉区共有古文書(長野県歴史館所蔵記録写真)、若槻史、区史よしむら、長野県町村誌、長野県史、上水内郡誌、豊野町誌、牟礼村誌、三水村誌、永江村誌、長野郷土史研究会機関誌(87,91,95号)、北信郷土叢書、信濃郷土叢書、佐久間象山研究文献、野田喜左衛門研究文献、新撰仁科記、その他歴史に関する書籍文献多数
インターネット検索(信州地域史料アーカイブ、国立国会図書館アーカイブ、行政や個人史跡研究家のHP等)
長野県歴史館、長野市立図書館、長野市公文書館、飯綱町歴史ふれあい館、豊野町川谷区泥ノ木の水神社(七面大明神祠)、飯綱町上赤塩の七面社、飯山市本光寺(七面大明神と野田喜左衛門の墓)、小谷村教育委員会、小谷村常法寺、長野地方法務局 他各地
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